
ここは第一次大戦のあと、ドイツ領から日本の委任統治領になった。その当時は「タロイモと魚が島民の主食だった」とパラオ共和国の上院議長だったピーター・スギヤマはいう。
「日本がきてからその生活は大きく変わった」と続ける。日本はコメを持ってきた。ナスやキュウリなど野菜に、サトウキビ、パイナップルも持ち込んだ。
そして雇用創出もした。マグロ缶詰工場やかつお節工場もつくり、島民に仕事を与えた。
インフラも整備し、舗装道路を敷き、電気を供給し、電話も引いた。今、英語で話される日常会話に日本語の「デンワ」が交じるのもそのころの名残だ。
しかし、その統治は三十年と続かず、パラオは三度、新しい統治国、米国を迎えた。
彼らはまず「すべての工場を破壊し、畑もつぶした。島々を結ぶ橋も壊し、道路の舗装まではがしていった」。
すべての破壊が終わった後、米国は島の人々にアメリカ米を支給し、働かなくてもいいように生活保護費を出した。東西冷戦の中でこの島が東側に取られた場合を考えれば、数千の島民にただ飯を食わせるぐらいは安いものだという考え方だ。
そして、冷戦が終わった今、島民への援助は間もなく打ち切られる。もうこの島を持っている意味はなくなったからだ。カリブ海に浮かぶハイチはナチやソ連の進出が懸念されるたびに米国が占領した。脅威がうせれば捨てられた。それと同じパターンである。
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ピーター・スギヤマは米軍兵士が汗まみれでブルドーザーを動かし、道路の舗装をはがしている光景を覚えている。「まるで日本人がここにはいなかった、何もなかった、と黒板消しで日本の影を消し回っているようだった」と。
実は、そういう日本の名残を消し去る作業はアジア各地でも見られた。あの泰緬鉄道もそうだ。
全長四百キロ余り。昭和十八年春から日本軍と連合軍捕虜、それに現地の人たちが従事して十カ月足らずでバンコクからミャンマーのモールメンまでが結ばれた。
しかし、戦後、戻ってきた英軍は日本軍捕虜を使ってその軌道敷を撤去させ始めた。
驚いたのはタイで、せっかく敷かれた鉄路を外すことはないだろうと抗議して、結局、タイ領内の五十キロだけが残された。今、それは地元民の重要な足として重宝がられている。
地元の人たちには有用な舗装道路や鉄道を、彼らはなぜ取り払ったのだろうか。その答えは「ハル・ノート」で知られるコーデル・ハルの言葉に集約されそうだ。
彼は終戦前年の秋、「日本は敗れても、解放の戦士としてアジアに影響力を残すだろう」とルーズベルトに警告している。
その影響力を排除しないと「欧米のアジアの植民地支配は終わり、マッカーサーのいう『米国の未来はアジアとその周辺の島々(の支配)にかかっている』という夢も無駄になる」と。
そうか、じゃあ日本の影響力を排除しよう、とはどんな歴史書にも書かれていない。書かれてはいないけれど、その後の展開は十分それを裏付けている。
敗戦後、連合軍は国外にいた日本人すべてを引き揚げさせた。アイルランドなど中立国にいた日本人まで引き揚げさせたのは明らかな国際法違反だが、それでも強行している。
舗装をはがし、鉄路を取り払ったのも日本人がいたという証拠を消し去るためだったろう。
彼らは、すべてを消し去ったあと、もっと積極的に日本の否定的イメージを植え込んだ。「日本は侵略国家」だとか「残虐非道」だとか、聞き飽きた伝説だ。
泰緬鉄道では、そこで働かされたP・ブールが「クワイ川の橋」を書いてこの伝説を補強した。
ただ、勢い余って続編に「猿の惑星」を書いたのはまずかった。日本人を猿に見立てたストーリーは、はしなくも白人こそ有色人種・日本人に勝るのだ、という本音をもらしてしまった。
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韓国で日本の総督府ビルが取り壊された。
日本はこの国に総督府だけでなく、ダムも鉄道もつくった。おかげで「はげ山が消え、港も立派になった」(日韓交渉での久保田貫一郎政府代表の発言)。
日本の遺産が気に食わないなら鉄道もダムも壊せばよかったと思うが、それは別にして、この総督府取り壊しには、欧米と同じ人種意識がある。
十一日付の本紙「日中再考」に「中華のために屍になろうとも、倭奴にはひざまずかず」の引用が示す「華夷弁別」意識である。
中国文化圏には、この序列が生きていて、中国がその中心にあり、序列二位に朝鮮とベトナム。三位に蒙古その他。その外側の日本はもはや化外の地なのだ。
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彼らは口でこそ言わないが、そういう人種意識、弁別意識がすり込まれている。
その善悪は別にして、彼らがどういう思考形態を持っているかを知らなければ、日本は国際舞台でどんな交渉をしようとも勝ちはない。