日本では実は官僚の仕事を武士がやってきた。だから中国の役人を戒めるために作られた孟昶の戒石銘「爾俸爾禄/民膏民脂/下民易虐/上天難欺」が、日本では例えば福島県二本松藩のようにお城に置かれたりする。
官僚である前に武士道精神を持たされた人たちだから、両班(ヤンパン)のように威張ったり、科挙上がりのように汚職ざんまいとはならずにすんだ。実際、戦国期にきたJ・ロドリゲスや江戸期にきたケンペルの報告書には「支配階層」の人たちがごく質素な食生活をしている様が描かれている。
そういうつましい兼業武士たちに、明治新政府が最初に言ったのが「みんな解雇する」だった。世に言う秩禄(ちつろく)処分である。そして必要な人材だけを再雇用したが、それは全体の三割ほどだった。
今で言えば霞が関の国家公務員から地方の村役場の窓口係まですべてをクビにするのと同じことだが、そこは武士である。それが新しい日本に必要ならと、歴史にそのうめき声さえ残さずに従容として舞台を去っていった。
そして新政府は武士階級に代わる次代の担い手として、広く在野からエリート官僚の卵を募ることになる。家柄や身分はいっさい問わない、成績さえよければそれでいいという大らかさだった。
かくて帝大−高等文官試験のコースが作られ、一方で陸士海兵から陸大、海大という軍人エリートのための道も生まれた。陸大でいえば各期のトップ五人に恩賜の軍刀がエリートのあかしとして与えられた。試験万能、成績万能のシステムが動き出した。
これは中国の科挙の制と変わらない。むしろ、文官どころか軍人の世界にまで科挙の制を持ち込んだ拡大版でもあった。
同じ時期の、日本が見習った欧米諸国を見てもここまで「成績」にこだわった国はない。
例えば英国。エリートの原点を支えるのがイートンやハローなどパブリックスクールになるが、そこでは成績優秀なだけではなく、「肉体的、精神的にタフで、決断力、責任感のある人材」(浜渦哲雄「英国紳士の植民地統治」)だった。彼らはそれをジェントルマンシップと呼ぶが、言ってみれば武士道精神でもある。ちなみにあのチャーチルもハローに学び、軍人への道を歩んだ。成績だけの科挙方式とは一味も二味も違う。
その科挙について西尾幹二氏は「国民の歴史」で興味ある見方をしている。だいたい日本は中国文化に対し、いいものはいい、悪いものは悪いとちゃんと取捨選択をした、と昔の日本人の英知を評価する。そして悪いものとして入れなかったのが、纏足(てんそく)や宦官(かんがん)、科挙の制だった、と。
で、日本はどうなったか。明治時代はまだ三割残った武士が活躍したからよかった。日露戦争に勝ったのも彼らのおかげだった。
しかし、彼らが引退し、わが国初の成績だけのエリート官僚が登場してからがいけなかった。
軍人官僚について若槻泰雄元玉川大教授はいう。「彼らは官僚の弊である伝統と慣例だけでしかモノを考えられなかった」。だから欧米が軍の近代化を進めているのに、そういう新しいことが分からない。「歩兵銃が自動小銃に変わっていってるのに、日本は相変わらず単発銃のまま」で、結局、兵士は第一次大戦の装備で第二次大戦を戦わされたという。
官僚には責任逃れという特性もある。陸軍では恩賜軍刀組の辻政信が筆頭になる。彼は机上でノモンハンの作戦を立て、軍を大敗させた。その責任も取らず、次はシンガポールにいって、敵性華人の皆殺しを叫んだ。二千人以上が殺され、今に日本の不名誉を残したが、戦争裁判では他人に責任をなすりつけて逃げてしまった。
海軍では福留繁参謀長がいる。彼はフィリピンで米軍指揮下のゲリラに捕まって最高機密文書を奪われる。やがて友軍によって救出されるが、失態の責任は不問のまま中将に出世する。
評論家、谷沢永一氏は「誰が国賊か」の中で「部下には生きて虜囚の辱めを受けるなと精神論をぶち、敵地から生還した非エリート組の部下には自爆特攻を命じてもいる」と、さむらいから程遠い官僚・福留の姿を指摘している。
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明治維新は、それがよかれと思って文、武の双方に「官僚」を導入したが、おかげで日本は戦争に負けてしまった。
軍部官僚は幸いにも戦後、処分されたが、高文系の方の官僚は残った。彼らについて最近、小さなニュースが二つあった。
一つは死者まで出したあの核臨界事故で更迭されたはずの科技庁の間宮馨前原子力安全局長についてで、彼がこの六月異動で政策局長に大栄転した、という。
もう一つは総務庁の諮問機関が「不祥事で懲戒免になった官僚に退職金を払わないのはかわいそう。生活補償部分は支給すべきだ」と提言したという。総務庁は「これを尊重して退職金支給の方向で見直す」らしい。
「秩禄処分」をもう一度やる時期がきたようだ。